情報教育担当者としての悪戦苦闘物語

ICT

 教員になって4年目くらいからですから、かれこれ26年間ほど情報担当をしてきました。免許は音楽なので当然「音楽主任」はついてきますし、若手にありがちな児童会(生徒会)担当や高学年担任は、当たり前でしたので、今思えばよくやっていたと思います。

 当時は、ペラペラの5インチフロッピーディスクが主流で、3.5インチが出始めた頃でした。また、Windows3.1・95・98の相次ぐ発売と爆発的な普及によって、NEC-9800シリーズ&一太郎(ワープロソフト)黄金時代が崩れたあの時代です。(記憶のブレによって数年のズレがあるかも知れません。あしからず)以下、ワシが情報担当として学校のインフラや職員の意識とすったもんだしてきた足跡をまとまてみたいと思います。

電話回線との戦い

 当時は、職員室にある2~3台のデスクトップパソコンを使うか、自前のノートパソコンを持ち込んで仕事をするのが当たり前でした。ワシも新規採用(1991年)から数年は、ポータブルワープロを主に使っており、パソコンに関しては「“テンキー?”、“ファンクションキー?”なにそれ?」というレベルでした。5年後、3校目に異動した頃Windows95を搭載した、シャープのメビウスを購入。これが、はじめてのノートパソコンでした。学校はといいますと、パソコンの導入(2~3人に1台)が始まった頃で、インターネットもやっと電話のアナログ回線(最大56kbps)を使った接続が知名度をあげつつあり、ワシも興味津々でした。

 「教室で世界の情報にアクセスできたらすげえじゃん!」と、自前のメビウスくんでインターネットを見せる方法を模索しました。2~30メートルの電話用有線を職員室から教室までつなげたのですが、学校の電話回線を奪うわけにはいかないので、ファックスの回線を一時的に借用していました。(これでも、今思えば無茶をしたものだと思います。はい…。)

校内LANの戦い

<プリンタを共有する>

 はじめは、プリンタの共有が目的でした。「”LANケーブル”と”モデム”というものを使えば、自分の机からプリントアウトができる!」とは、大変な感動でした。しかし、教えてくれる人なんていません。話が通じる人すらほとんどいないのです。音楽室(当時はパソコン室なんてなかったので)に導入された5台(だったと思う)のデスクトップマシンとプリンタのつながり方を床に這いつくばって研究したり、雑誌で「ケーブルにはストレートとクロスがある」「カテゴリーというランクで対応できる通信速度が変わる」といった基礎知識を学びました。また、LANポートのあるプリンタなんてありませんから、プリンタとつながっているデスクトップマシンをプリントサーバー機として接続できるようにするのですが、様々なパソコンのOSやデバイスのバージョンなどによって、すんなり接続できることは希で、とにかくプロハティ(設定)を確認して、疑わしい項目1箇所を変更しては試す…だめなら、そこは戻して別の設定をいじってみる…の繰り返し。もちろんその度に再起動を待つわけですから、気が付くと今日が終わろうとしている…なんてこともざらでした。(月に何日かは学校に泊まってました)

<データを共有する>

 Windows95は、クライアントマシンや、デバイスをLANでつなぐことに関しては大変やりやすいOSでした。おかげで、これが主流になっていくと、プリンタや新しく個人購入されたノートPCを職員室内LANに組み込むことは、随分と楽になりました。それでも、メーカー間の相性にはまだバラつきがあったので、以前と同じやり方で設定しても、うまくいかないなんてことは、よくありましたが。。。

 「データ・サーバー」という概念は、知ったのではなく、自然と思いつきました。一人の教員が実に様々な役割を担い、しかも毎年のように少しずつ担当替えが行われる学校組織では、前任者がフロッピーディスクに文書データをまとめてくれてあるかどうかということは、死活問題でした。これが、職員室内ネットワーク上の、特定の場所に、フォルダに分かれてすべて納められているとしたら。しかも、それらには誰もがアクセスできて、数年前のデータも参照できるとしたら。そんな、今では当たり前のことが、夢のようなことに思え、その可能性に気づいた時は、「ユーリカ!」と叫びながら走り出したくなるほど感動したものです。 

<手探り、手作りの校内LAN>

 学校にISDN回線が引かれ、学年ごとにメールアドレスが与えられるようになった頃、校舎改築のために1年ほどのプレハブ生活をすることになりました。引越しの日、全職員と、児童、生徒、保護者が総出で荷物運びをしていましたが、ワシは一人、黙々とLANの裸配線を張り巡らせていました。当時の教育委員会にいらっしゃった専門監が、ITに精通された理解者で、50メートルのケーブルと、大量の先端プラグを予算で買ってくださったのです。実際は、少し前に行われた情報担当者研修会で、ワークショップをする際に用意してくださったものです。この研修会の企画・実施を通して、市内の担当者全員に成端作業(オーダーメイドケーブルの手作り)ができるようにしたことは、すばらしい先見の明だったと今でも感心してしまいます。

 1日中、いろんな教室の片隅でケーブルを必要な長さに切り、両端で中にある8本の芯線をむき出しにし、プラグに正しく差込んで、専用の器具で抜けないように圧着する(通電テスターも、市の情報教育委員会所有で一つありました)。。。これを何十本も作っては、全教室に張り巡らせるのです。できることなら、チームを作って分担作業したいところですが、工具もひとつしかないし、第一説明して分かってくれる人はいないので、一人でやりました。翌日、子供たちに「先生だけ楽してた」と言われてしまいましたが、ワシの内心は、達成感でいっぱいでした。

<ついに、ペーパーレス会議を実現>

 はじめは、誰にも理解されないまま、それでも着々とシステム構築を進めること6年。興味を持った年の近い先輩からはじまり、徐々にネットワークによるデバイスやデータの共有への理解が広まっていきました。中には「ノートパソコンを買ってみようと思うのだけど、お金を渡すからぼくと妻のものを、代わりに買ってきてはくれないだろうか?」と声をかけてきた大先輩もいらっしゃいました。現代では、ちょっと考えられないやりとりですが、その時のワシは、普及活動の大きな成果に思え、素直に嬉しかったのでした。

 そして、新校舎がほぼ完成し、プレハブ校舎の生活も終わりを迎えようかというある日、「共有サーバーにある文書を、みんなが各自のパソコンで参照しながら、会議をしたら?」ということになったのです。このやり方なら、会議を経て完成した文書だけ、あるいは、あとで紙媒体を必要な人だけが印刷をすればよいのですから、紙もエネルギーも大幅に削減されます。全職員が、ノートPC所持者となり、すべてを職員室LANに組み込むことができたからこそできたことでした。今から、20年も前、「ペーパーレス会議」などという言葉がまったく普及していない時代の奇跡でした。

 長くなってしまいました。。。この時代の悪戦苦闘話は、授業活用のことや、年代による価値観の違いからくる衝突のことなど、まだまだ尽きないのですが、今回は、ここまでにしておきます。

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